わずか16歳、祭り上げられた反乱指導者「天草四郎」は実在した?複数人説も存在する奇跡の少年の虚実:2ページ目
島原の乱の首謀者
そもそも、島原の人々が反乱を起こしたのはキリシタン弾圧だけが原因ではありませんでした。発端となったのは、領主による過度の重税など、圧政に苦しむ農民たちによる蜂起だったのです。
そしてこの蜂起に、幕府の方針で棄教させられた大勢の元キリシタンたちが参加したことで、宗教運動として拡大したのです。
天草四郎はこうした騒動の後で蜂起に加わっており、最初からリーダーシップを発揮したわけではありませんでした。
では、彼が反乱の首謀者だと思われてきたのはなぜでしょうか。それは、主君を失った浪人や庄屋が彼を担ぎ上げたからです。
原城で捕縛された、旧有馬家の家臣である山田右衛門作によると、天草に集合した5人の浪人勢によって、四郎を旗頭にしようと話し合われたようです。そしてその後、有馬地域の村々が相談し、天草四郎をリーダーとすることが決まったのでした。
浪人たちが天草四郎を担ぎ上げた目的は二つあり、元キリシタンたちを集めることと、一揆勢の士気向上です。
その結果として一揆軍は3万人規模の大軍に膨れ上がり、村々から集めた武器で武装し、幕府を苦しめることになりました。
なお、かつては一揆軍は全滅させられたと言われてきましたが、これも誤りです。
実際には、相当数の農民が原城を脱出していたことが複数の史料からわかっています。これは、幕府軍が一揆軍の殲滅までは目指しておらず、女子どもや投降者を許すよう軍令で決めていたからでした。
また、一揆勢がみな宗教運動に積極的だったわけではなく、情勢を見極めて逃亡する者も少なくありませんでした。熱狂的な信者ばかりが集まったわけではなかったのです。