幕末の「江戸城無血開城」は勝海舟の実績ではなかった!実は手柄を横取り、話は盛りすぎ…:2ページ目
「無血開城」の真の功労者は
そして慶応4年(1868)3月14日に決定した江戸無血開城も、勝だけの手柄ではありませんでした。
江戸に迫った新政府軍に対して、勝は周到な準備をしたとされています。
彼はイギリス公使を介して新政府軍へ圧力をかけ、侠客に江戸市中での焦土作戦を命令して新政府軍をけん制。この状況を利用した交渉術によって、西郷隆盛に江戸攻撃を中止させた——というのが通説です。
しかし実際には、勝がイギリスの外交官と対面したのは江戸無血開城後の24日のことでした。また、焦土作戦のことを西郷は知りませんでした。
つまりイギリスの圧力も焦土作戦も、江戸無血開城とは無関係だったのです。
そもそも、西郷から攻撃中止の判断を引き出したことは、勝だけの功績ではありません。慶喜に仕えた山岡鉄舟の活躍があったからこそ、江戸は火の海となることを避けられたのです。
鳥羽伏見の戦いでの敗北後、将軍の慶喜は上野寛永寺へ謹慎し、新政府軍へ恭順の意を示していました。
しかし、新政府は慶喜の真意を測りかね、江戸への進軍をやめませんでした。
そこで慶喜は、降伏交渉の使者を西郷のいる駿府に派遣することを決めます。このとき選ばれたのが、山岡鉄舟でした。
その結果、鉄舟は交渉を成功させ、西郷は江戸城引き渡しと引き換えに、慶喜の助命を認めたのです。
二人の会談は何度か行われましたが、最後の会談は3月9日のことです。勝と会談した4日ほど前には、すでに無血開城の大筋は決まっていたことになります。
なお、鉄舟は勝の命令で派遣されたという説もありますが、これは勝本人が『氷川清話』の中で「初対面だった」と否定しています。