手洗いをしっかりしよう!Japaaan

幕末の「江戸城無血開城」は勝海舟の実績ではなかった!実は手柄を横取り、話は盛りすぎ…

幕末の「江戸城無血開城」は勝海舟の実績ではなかった!実は手柄を横取り、話は盛りすぎ…:3ページ目

山岡の手柄を横取り

では、既に無血開城は決定していたにも関わらず、江戸城で勝と西郷が会ったのはなぜでしょうか?

それは、最後の確認作業をするためでした。駿府で合意したとはいえ、正式な決定がない以上、立場のある幕臣と調整を進めなければなりません。そこで勝が調整役になったというわけです。

これが勝ひとりの手柄として広まったのは、勝本人が自分の功績として喧伝したからです。

西南戦争で西郷が死ぬと、勝は明治14年(1881)に「江戸の総攻撃中止は自分が主導した」との報告書を、勲章・褒賞などを所管する賞勲局に提出しました。

これにより、江戸無血開城は勝の功績として語られることになったのです。

なお、実際に西郷と交渉した鉄舟は、勝と競合するのを嫌ってか、賞勲局に報告書を提出していません。

つまり「江戸城無血開城」の伝説については、勝が山岡の手柄を横取りした部分もあったということです。

参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:Wikipedia

 

RELATED 関連する記事