日本史上唯一、天皇を暗殺させた人物「蘇我馬子」の”独断犯行説”は現代では否定されている:3ページ目
蘇我一族滅亡の真相
では、崇峻が暗殺された理由は何だったのでしょうか。それは、朝廷をとりまく環境に緊張が生じていたからだと考えられます。
崇峻が即位した翌々年には隋が大陸を統一し、巨大国家が出現していました。隋は朝鮮半島の高句麗に軍を送るなどしたため、朝廷も隋を警戒し北九州に軍を派遣しています。
また国内でも蘇我氏に敵対する勢力がくすぶり続けており、朝廷は軍事的・政治的に安定していませんでした。まさに内憂外患です。
崇峻のもとではこの状況に対処できないとして暗殺されたのだと考えられます。
ちなみに蘇我氏が関係している暗殺事件といえば、後の蘇我入鹿の暗殺事件も有名ですね。
しかしこれも、従来の「蘇我氏が権力者として横暴に過ぎたため暗殺された」という説明は、現在では否定されています。
従来は、蘇我馬子の息子である蝦夷と、孫の入鹿の代で蘇我氏は専横を極めて人々に恐れられた、だから殺された——とされてきました。教科書や解説書ではおなじみの記述です。
しかし、『日本書紀』にあるように蘇我氏は独裁者として横暴だったから滅ぼされたのではなく、政治の方向性の違いから葬られたというのが現在の考え方です。
この時期は大国・唐の成立を受け、日本では中央集権化が図られていました。蘇我氏が実施したのは、天皇をたてつつ裏で蘇我氏に権力を集中させる統治法でした。
対する中臣鎌足が目指したのは、官僚制を基にした中央集権体制であり、有力な皇族のもとに豪族が政務を補佐する統治法でした。こうした理想を実現するべく、蘇我氏は滅ぼされたとされているのです。
これについては明確な結論があるわけではありませんが、「蘇我一族に権力が集中したため滅ぼされた」という単純なストーリーでは説明不足だと考えられているのは間違いありません。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
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