決して「軍部の操り人形」ではなかった昭和天皇。日本軍のまっとうな統率者としての実像とは:3ページ目
ターニングポイントは沖縄戦
こうしたことから、よく言われるように昭和天皇は軍部の操り人形だったわけではなく、軍部からの報告も形式的に聞いていたわけではないことが分かるでしょう。
天皇は、軍事作戦の内容について、時には疑問点がなくなるまで質問攻めにしていたことが分かっています。また、戦況が圧倒的に不利でも戦闘継続を求めたこともありました。
例えば沖縄戦では、戦況は不利だったにもかかわらず陸軍に総攻撃を決断させています。
また、昭和20(1945)年2月に近衛文麿元首相が終戦交渉を上奏しても、戦果が乏しいため降伏はできないとしました。あくまでも、日本にとって有利な状況を作り出すことを政府と軍に求めていたのです。
しかし、沖縄戦ではアメリカに大した打撃を与えられず、沖縄が占領される結果に。こうなると、本土決戦になったとしても勝利する望みは薄いです。
こうした事態を受け、天皇は勝つ見込みがないと悟り、戦争終結に向けて動き出しました。軍部の急進派は戦争継続を主張したものの、昭和天皇は降伏の意志を固めて8月10日にポツダム宣言受諾を決定。14日に無条件降伏を受け入れたのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
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