怒り狂い刀を振り回す暴挙!?実は徳川家康の名君イメージは作られたものだった。その実像とは:3ページ目
支配政策のたまもの
こうした家康神格化の流れは、徳川家光による東照宮の増築によりさらに推し進められていきます。これにより、家康は関八州どころか日本全土の神へと位置付けられたのです。
また、それだけではなく、家康を崇敬する家光は諸大名に対して東照宮を自国領に造立するよう勧めてまわりました。
家光は、お守り袋に「家康と心も体もひとつ」と書いた紙を入れるなど崇敬していたといいます。
その甲斐もあり、全国に500を超える東照宮が建立され、家康を神とみなす価値観が広がっていきました。
さらに、庶民層への統制も徹底もされました。出版・言論の自由を許さなかった幕府は、家康を批判する出版物を次々に規制したのです。
たとえ内容が事実であっても、将軍家の威厳を傷つける内容であれば、幕府は厳罰をもって対処しました。
こうした幕府の神格化政策と出版統制によって、「神君家康公」のイメージは根付いていったのです。
ちなみに家康は、自分の性格を戒めるために、有名な「しかみ像」の絵を常に近くに置いておいていたという伝説があります。しかしこれは正式な記録が残っている話ではありません。やはり上記のような「神君家康公」のイメージを補強する作り話として流布していったものと考えられます。
私たちが徳川家康に対して抱いている「我慢強く落ち着きのある性格」「機を見るに敏な名君」などのイメージは、実は徳川幕府の政策のたまものだと言えるでしょう。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解 最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
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