怒り狂い刀を振り回す暴挙!?実は徳川家康の名君イメージは作られたものだった。その実像とは:2ページ目
神になった家康
ここまで見てきた家康像は、私たちにとって馴染んできた「鳴くまで待とうホトトギス」のイメージとは大きく異なっていますね。
真相を明かせば、このような「名君」としてのイメージが植え付けられ、よりはっきり言えば「神格化」が進んだのは江戸時代以降のことで、そうした家康像は意図的に広められたものです。
家康の短所が隠され、「完璧な名君」として語られるようになったのは、ひとえに徳川幕府が支配を安定させるためです。
17世紀半ば頃まで、世は戦国の気風を色濃く残しており、東北の伊達や加賀の前田など、徳川の天下を脅かす勢力も少なくありませんでした。
そこで家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすと、徳川家の権力を強化すると同時に自らを神格化して人心掌握を図ることを計画したのです。
元和2年(1616)に彼が死去した後、関八州の守護神にせよという遺言に従い東照大権現として祀られたのは皆さんもご存じのとおりですね。翌年には、家康を祭神とする日光東照宮が徳川秀忠によって造営されています。