天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当なのか?現代まで残る風説を紹介【後編】
天下人「豊臣秀吉」は跡取りに恵まれず、晩年に生まれた「豊臣秀頼」を溺愛したとされる。しかし、秀吉の実子に関しては様々な憶測や諸説が存在している。
今回は【前編】に続き、秀吉の実子にまつわる説を検証する。
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天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当なのか?現代まで残る風説を紹介【前編】
低い身分の出生でありながら、天下人にまで上り詰めた戦国三英傑の一人「豊臣秀吉」。秀吉は後継に恵まれず、晩年にもうけた待望の男児である豊臣秀頼を溺愛したというエピソードは有名だ。秀吉の実子につ…
③豊臣鶴松(つるまつ)
1589年、秀吉と側室「淀殿(よど)」の間に長男(秀吉の子としては次男)として誕生する。この時秀吉は53歳であり、石松丸が実子であると仮定した場合、15年前後の時を経て誕生した次男という事になる。
秀吉は鶴松を溺愛し後継者として期待したとされるが、鶴松は1591年頃から病に侵され同年のうちに死去。2歳という早世であった。
④豊臣秀頼
秀吉の実子とされる人物の中で、もっとも有名な存在が三男の「豊臣秀頼(ひでより)」だろう。母親は鶴松と同じく側室の「淀殿」。1593年に大阪城で生まれた。秀吉57歳時の子供である。人生50年といわれたこの時代にあって、他に類をみない高齢での実子誕生であった。
秀吉の死後、跡取りとして豊臣政権を任されるが、関ヶ原の戦いを経て台頭した「徳川家康」の策略によって一大名に転落。徳川家との対立を深め、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。秀頼自身も自害して果てた。享年23。
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