935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【後編】:3ページ目
三度目でついに謀反人扱い
さらに将門は、同年に常陸の豪族と常陸の役人との対立を調停し、地元の有力者に味方して役人を都に追い返しています。
これによって再び常陸介から謀反を訴えられ、今度は将門に不利な裁決が出ました。それに従わなかったため、いよいよ彼は追討されることになります。
そこで将門は関東の国府を襲い、都から派遣されていた役人を次々に追放しました。
公的な意味での「乱」と言えるのは、この国府襲撃だと言えるでしょう。
将門にすれば、これは自らによる調停の結果であり、国司の横暴を自力救済し、地元の人々の利にかなう役人を自ら任じたつもりだったのかも知れません。
また、この「乱」の中で彼は新皇を称していますが、これは必ずしも都の朝廷にとってかわり、全国制覇を目指したわけではなかったと考える研究者もいます。
彼が新皇と称したのは、将門が「守」や「介」に任じられた人物を朝廷に追認させるためのデモンストレーションだったという考え方です。
このように見ていくと、従来、平将門の乱と言われてきたものはほとんどが「乱」と言えるものではなく、そのことは公的にも認められていたと言えるでしょう。
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社