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935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【後編】

935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【後編】:2ページ目

汚職役人から訴えられる

当時は、都から国司が派遣されると検注が行われるのが一般的でした。検注とは、簡単にいうと税の徴収のための土地調査です。とても嫌ですね。

さてこの検注を受けるにあたり、地元の人々は、赴任してきた国司に賄賂を贈るのが慣例でした。そうして税の減免を求めたわけです。

ただ、そればかりではありません。都から赴任した国司(守)と、地元の有力者や土地の開発領主としての武士たちは、この検注の手続きを進める中で協力できる場合もあれば対立・紛争に至る場合もあります。

問題が発生したのは、938(承平8)年に武蔵権守として興世王という人物が赴任してからのことでした。この人物は、着任早々検注を実施して賄賂を要求したため、地元の有力者と対立して紛争に発展してしまったのです。

これを調停しようとしたのが平将門です。この頃の将門は、関東地方のいわば顔役のような存在でした。そしてこれが原因で939年に将門は謀反人として訴えられています。

では、これこそがいわゆる平将門の乱の起点か? と考えたくなるところですが、そうとも言えません。なぜならこの時、将門は事実無根を都に訴えており、朝廷はそれを認めているからです。

3ページ目 三度目でついに謀反人扱い

 

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