激務のあまり我が子も看取れず…藤原行成の多難すぎる長徳4年(998年)がこちら【光る君へ】:2ページ目
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我が子の死に目にも会えない
子供は長徳3年(997年)に生まれたばかりの2歳男児で、容貌がはなはだ美しかったそうです。
父の病が感染したのか、それとも元から病弱だったのか、力なく母の源泰清女(やすきよの娘)に抱かれていました。
行成はそばにいてあげたいけど、もし子供が死んでしまうと、死穢(しえ。死のケガレ)によって参内できなくなってしまいます。
蔵人頭である自分がそんなことになったら、朝廷の政は停滞してしまうでしょう。
災難が相次ぐ中でそんな事態に陥ったら目も当てられません。
どうしたものか、せめて気配が感じられる庭先に立ち尽くす行成。同じ屋内にはいられなかったのですね。
何とか回復してくれないものか……そんな願いも虚しく、男児は世を去ってしまいました。
母親の泣き声で、それと悟ったのです。いますぐ我が子を抱きしめたい思いをこらえ、行成は死穢を避けて喪があけるまで別宅から参内したと言うことです。
終わりに
かくして民を救う激務に追われながら、行成の長徳4年(998年)は過ぎ去っていきました。
翌長徳5年(999年)1月13日、朝廷ではあまりの「長毒」に耐えかねたように改元。長保元年(999年)となったのです。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では描かれませんが、行成にはこんなことが起きていたと思うと、いっそう彼を贔屓したくなりますね。
※参考文献:
トップ画像(右):大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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