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明治新政府の征韓論は「韓国を征服する理論」ではない?西郷隆盛と大久保利通のそれぞれの思惑

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内治派も一枚岩ではなかった

明治新政府は、あくまでも近代的な国際法に則って国際関係を結び、東アジアの外交関係を再構築しようとしていました。

この考え方と比べてみると、先述の西郷の考え方は時代遅れであり、さらに言えば政府の方針に反するものでもありました。

このように、あくまでも近代的な国際法に則って国際関係を結ぼうと考えていたのは大久保利通です。彼は国内政治の近代化だけではなく、外交の近代化も目指していました。

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ところで、先に大久保と木戸孝允は「内地派」だったと述べましたが、二人の考え方も微妙にニュアンスが異なっていました。

その後、大久保は征韓論を否定しながらも、1874(明治7)年には台湾に出兵しています。木戸はこの大久保の矛盾に憤り、「先に征韓に反対しておきながら、征台をおこなうとは道理に合わぬ」と怒り、一時政府の要職を辞めてしまいます。

大久保は、必ずしも内政を重視するから対外進出しない、とは考えていなかったのです。

ちなみにこれも重要なことですが、1875(明治8)年には、大久保が主導する明治政府は江華島事件を起こし、これをきっかけにして翌年、日朝修好条規を結ぶことにこぎつけています。

よって、このような後の展開を考えると、「征韓派と内治派」という単純な二分類は適切ではないことが分かるでしょう。

これまで征韓派と考えられていた人たちが、全員武力行使を前提としていたわけではありません。そして内治派もまた、派兵による国際関係の構築を全面否定していたわけではないのです。

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社

 

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