明治新政府の征韓論は「韓国を征服する理論」ではない?西郷隆盛と大久保利通のそれぞれの思惑:2ページ目
武力行使は「もってのほか」
明治維新では、倒幕について功績があった武士(士族)たちが、時代の変化の中で特権を失って政府に不満を持つようになりました。征韓論には、その不満を逸らせる目的があったとよく言われます。
実際、共通の敵を作って国内の統合を図るという政策が、国外進出と結びつくことは世界史的に見ても珍しくありません。
そして、板垣退助の説く征韓論はまさにこれでした。一方で、西郷隆盛の考えていた「征韓論」には少しニュアンスの違いがありました。
もともと西郷は、朝鮮に対して「旧来の儀礼にもとづいて」使節を派遣し、場合によっては自分が使節として向かってもいいと主張していました。
旧来の儀礼とは江戸時代の日朝関係、つまり朝鮮通信使の時代の外交のことで、このやり方でまずは朝鮮と接しようと考えていたのです。その上で朝鮮を開国させ、それに応じない場合は武力行使もやむなし、という考えていたんですね。
西郷隆盛を、征韓論を唱えた中心人物であるかのように説明することも問題があります。使節として朝鮮に行くのは交渉であると断言していますし、「軍隊を派遣する」などとは発言していません。
むしろ西郷は、武力行使すべしと主張する板垣退助らをたしなめていました。板垣は軍隊を釜山に上陸させる案を出しますが、「そんなことをしたら朝鮮の人々が誤解する。派兵などもってのほか」と、その意見を退けています。
さらに、三条実美までもが「西郷が大使として行くなら軍艦に乗って兵を連れていけ」という申し出をしていますがこれも拒否しているのです。
征韓論について言えば、西郷はむしろ軽率な武力行使について反対していたと言うべきです。彼に強引な主張があったとすれば、あくまで自分が大使として行くのだ、と考えていたことに限られます。
このように、いわゆる「征韓論者」でも考え方のニュアンスは微妙に違っていました。こうした違いは、内地派の方にも存在していました。