「外様大名」の正確な定義は?その由来は鎌倉時代の「外様衆」にあった:2ページ目
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豊臣から徳川へ
そもそも関ヶ原の戦いは、いわば豊臣家臣団の勢力争いとでもいうべき内紛でもありました。
徳川家康は、同じ豊臣家の家臣団の諸大名を率いて「盟主」として戦っただけですから、主従関係にはなかったわけです。
実際、関ヶ原の戦いの恩賞は豊臣秀頼の名で行われており、戦後も家康はまだ豊臣政権内の主宰者という立場でした。
武家の主従関係でいうならば、1603(慶長8)年に家康が征夷大将軍に任じられて以降、もともと豊臣氏の家臣であった大名が、徳川家の「外様衆」となったというべきでしょう。
さらに言えば、外様衆にも適用される参勤交代を制度化したのは徳川家光なので、明確に外様衆が徳川氏の臣下となったと言えるのはこの時からでしょう。
参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
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