下級武士でも積極的に抜擢!意外と柔軟だった江戸幕府の身分制度は、明治の教育制度にも影響を与えていた:3ページ目
明治政府にも影響を与えた「徳川の実力主義」
黒船来航以降は、人材の確保と育成のために、幕府は下級武士であっても積極的に抜擢するようになります。御家人や他藩の藩士、商人、富農も積極的に採り立てるようになったのです。
例えば、明治の言論界で活躍した福沢諭吉も元は他藩の下級武士です。また、経済界をリードした渋沢栄一も豪農の出身でした。
こうした実力本位の考え方は、徳川家が駿河藩に転封されても継承されました。
徳川家は、家中の立て直しのために、幕府の研究機関である開成所を元にした静岡学問所と沼津兵学校を設置。そこでは旧幕臣だけでなく、農民や町人であっても極めて高い水準の教育を受けることができたのです。
この、身分にとらわれない人材育成の姿勢は全国から注目を集め、明治新政府も教育制度を構築する上で参考にしているほどです。
残念ながら、明治5年(1872)の学制発布までに両校は廃止となりましたが、卒業生と教師は大多数が新政府に召し抱えられました。
その後も、明治になって少しずつではありますが、武士階級以外が活躍できる土壌も次第に醸成されていきます。そして明治維新から2年後の明治25年(1893)には、官僚への登竜門である高等文官試験制度が整備されました。
見過ごされがちではありますが、新政府の教育制度や人材登用の在り方にも、徳川幕府が少なからず影響を与えていたことは間違いありません。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年