幻と消えた「徳川新政府」構想!実は徳川幕府が先に議会開設・普通選挙・象徴天皇などを考えていた:3ページ目
選挙制度も提案されていた
この他にも、慶応3年(1867)には「日本国総制度」という新体制案が、開成所の教授である津田真道によって立案されています。
この新体制案は、トップが徳川将軍であるという点は上述の西の案と同じですが、津田案の目玉は一般国民から議員を選出するという点でした。
どういうことかというと、上院は旧武士階級が占めるものの、下院は全国民のうち100万人につき1人を選抜して構成するというものだったのです。
これはまさに選挙制度の導入です。普通選挙法が施行されるのが大正14(1925)、制限選挙でも明治22年(1889)施行なので、それよりも前から徳川幕府は数十年も前から民主的な政権運営を計画していたことになります。
象徴天皇制や選挙制度が江戸時代に既に発案されていたことに驚く人も多いのではないでしょうか。もちろん、これらの案はその後の明治新政府にも大きな影響を与えています。
もし、その後も慶喜が主導権を握り続けていれば、西の案をもとに議会が設立されていた可能性が高いでしょう。幕府による「徳川新政府」が実現していたことは十分考えられます。
ただ「徳川新政府」が仮に実現したとしても、うまく近代化が進んだかどうかは分かりません。幕藩体制の権力図が継承されれば、側近や旧幕府重鎮の権力は高いままだったと考えられるからです。
幕藩体制の改編だけでは、明治維新ほどの鮮やかで大胆な改革を実現するのは難しかったでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年