幻と消えた「徳川新政府」構想!実は徳川幕府が先に議会開設・普通選挙・象徴天皇などを考えていた:2ページ目
西周による立憲君主制と「象徴」天皇制
また、こうした先進的な政治体制は、徳川慶喜ひとりが構想していたわけではありません。幕臣によって、具体的な改革案も起案されていました。
もともと慶喜の側近だった人で、新体制の構想作業でも中核の一人として活動したことで有名な西周(にし・あまね)という人物がいます。
西は、幕臣である平山敬忠に「議題草案」を提出し発案しています。司法、立法、行政が独立した三権分立を主軸とする立憲君主制度だったのです。
これは「王は君臨すれども統治せず」の原則に基づくイギリス議会を参考にしたと言われています。
もともと西周は欧米への留学経験もあり、慶喜に外国語を教えた事でも有名です。東京大学の前身である開成所の教授も務めたほどの人で、海外の政治体制に関する知見や知識が豊富だったのです。
西の構想はこうです。大坂に行政府を設置し、1万石以上の大名で構成された上院と、各藩主に選ばれた議員各1名で構成された下院を設置。そしてこれらを最高指導者の大君が統括するというスタイルでした。
もちろん、大君となるのは徳川家の当主です。天皇については、改元や爵位の授与などを扱う象徴的な存在に収めようとしていました。
西の案は「将軍家は天皇から政権を委任されている」という江戸幕府の建前と相性がよく、幕臣にとっても受け入れやすかったようです。この案に慶喜も理解を示し、他の幕臣にも議会制は伝えられています。