明治時代、日本に「海水浴」を広めた初代軍医総監・松本順 〜海水浴は医療目的からレジャーに:2ページ目
海水場の開設は、鉄道の発展も大きく後押ししました。松本が照ヶ崎を海水浴場として開いた1886年、横浜からの鉄道が、国府津まで延長することが決定されると、松本は伊藤博文に海水浴と国民の健康を力説し、大磯に停車場(駅)を設置するように働きかけました。
そして、海岸沿いには、旅館と病院を兼ね備えた「祷龍館(とうりゅうかん)」を建設。建設資金が不足すると、会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの実業家たちが名を連ねました。
横浜の本牧十二天や富岡などでは、照ヶ崎よりも早くから海水浴が行われていたという記録もありますが、これはあくまで外国人が行っていたもの。日本人によって、自発的に作られた海水浴場は、この照ヶ崎海水浴場が初めてということになります。
当初の照ヶ崎海水浴場には、女性の姿も見られました。当時使用されていた水着は、体のほとんどを覆うようなものでしたが、それでもいったん水に入ったりなどして濡れてしまうと、体の線がはっきりとでてしまうようなものでした。
水着姿の女性が話題となると、当時の神奈川県は風紀上よろしくないとこれを問題視。その結果、1894年7月、県内の海水浴場に男女の別が設けられるようになりました。
松本は、神奈川だけではなく、他の地域でも海水浴場の開設に関わっていたようです。
例えば1888年5月、松本は新潟県柏崎にいた医者の友人を訪れていますが、その際、地元の海岸にも出かけ、海水浴の医学的効能を地元の人々に伝えたとされています。
それからほどなくして、北越鉄道が開業し、1902年に鯨波海岸に停車場ができると、その周辺に旅館やホテルが開業し、長岡や新潟からも多くの海水浴客が訪れるようになりました。こうして、柏崎は、日本海側海水浴場発祥の地となりました。
松本は、当時はまだ日本で珍しかった牛乳の飲用を勧めたり、長野県湯田中温泉においては、温泉入浴法を示したりなど、民間人を対象に啓発的な活動を行っていたようです。
医療行為の一環として始まった海水浴は、その後レジャーの一環として、今も多くの人々に親しまれています。
参考:
- 「知ってなるほど明治・大正・昭和初期の生活 海水浴の誕生」アジア歴史資料センター
- 小口千明「日本における海水浴の需要と明治期の海水浴」『人文地理』第37巻3号 1985