貧乏くじ引かされ妻にも捨てられ散々な藤原道兼、実はまだ正室が別にいた!【光る君へ】:2ページ目
道兼の子供たち
さて、それでは子供たちについて、ざっくり紹介していきましょう。
藤原福足君
幼名であることから、元服(13~17歳)する前に早世したことが分かります。
『大鏡』によると、祖父・兼家の前で披露するため舞を稽古させられるも、当日の舞台上で泣き出してしまいました。
周囲が慌てる中、伯父・藤原道隆の機転でその場を切り抜けたエピソードが伝わっています。
しかし後日、蛇をいじめ殺した祟りによって病死。頭部に腫瘍ができたとのことです。
藤原兼隆
兄が早世したため、嫡男として育てられました。
正暦6年(995年)に父が関白となるも在任数日で急死してしまいます。
当時わずか11歳の兼隆に関白の地位を受け継ぐ力量はなく、叔父の藤原道長に明け渡しました。
従兄(道隆子息)の藤原伊周(これちか)・藤原隆家(たかいえ)とは違って、道長と争うことはなく、むしろ側近として仕えています。
藤原兼綱
父の没後、伯父にあたる藤原道綱の養子となりました。
長保3年(1001年)に元服、兵衛佐や左近衛少将、侍従などを歴任します。
しかし寛弘2年(1005年)の正月に暴行事件を起こし、共犯者ともども謹慎処分を受けました。
それでも徐々に昇進し、公卿を目前にしながら、父と兄の悪評ゆえに留められてしまいます。
公卿の夢果たせぬまま地方官となり、紀伊守の在任中に現地で世を去ったのでした。
藤原兼信
詳しい事績は伝わっておらず、名のみとなっています。
諱があるということは、恐らく元服まで生き延びることはできたのでしょう。
二条殿御方
後一条天皇の中宮・藤原威子(いし/たけこ。道長女)に女房として仕えました。
父が存命なら関白の娘として入内できたかも知れませんが……。
母の再婚相手である藤原顕光は実の娘たちで手一杯、とても連れ子にまで気が回らなかったのでしょうね。
終わりに
以上、道隆の正室とその子供たちについて紹介してきました。
恐らく本編に登場するのは一部でしょうが、もしかしたら兼隆や二条殿御方はチャンスがあるかもしれません。
あ、でも兼綱は道綱の息子として出て来るかも……。
トップ画像 左:「光る君へ」公式サイトより