武士は切腹をする際、苦痛を軽減させるために介錯を行っていました。
イメージとしては男性が行うものと思われがちですが、中には実の娘に介錯をお願いした人物がいました。その人物は黒木家永、九州地方に領地を持っていた戦国武将です。
今回は黒木家永に訪れた悲劇と実父を介錯した娘のその後についてご紹介します。
筑後十五城の一角だった黒木氏
黒木氏は平安時代より続く一族で、筑後国(現在の福岡県南部)の黒木郷に居ついた国人領主でありました。
家永の祖父・黒木親実以前は、肥後国に領地を有した菊池氏に仕えていました。そして、筑後守護が築地氏から大友氏に代わった後、親実は大友氏に仕えます。
他にも大友氏に仕えた筑後国の国人たちがおり、力を持っていた黒木氏含めた15家を「筑後十五城」と呼んでいました。その中でも黒木氏は筆頭の蒲池氏に次ぐ実力を持っていました。
黒木氏の当主が家永に就任すると態度を一変。大友氏に反旗を翻し、戦う構えを見せ始めます。
しかし、大友氏の家督を継いでいた大友宗麟が永禄7年(1564)に家永のいる猫尾城に向け、1万の軍を進めました。
家永は1000人にも満たない兵数でありながら、大軍だった大友軍と果敢に戦いました。それでも数には勝てず、敗北してしまったことで再び大友氏に仕えます。