鳥羽・伏見での戦闘の実態
【前編】では、1864年の禁門の変(蛤御門の変)をきっかけに、新撰組が西洋式の兵制や装備を取り入れていった経緯を説明しました。
幕末期、新選組は「刀」に見切りをつけていた!西洋式戦術を取り入れた柔軟な戦闘スタイル【前編】
【後編】では、彼らがどのような体制で鳥羽・伏見の戦いに臨んだのかを見ていきます。
今でも鳥羽伏見の戦いは、最新鋭の兵器を使う新政府軍と、旧態依然とした幕府軍の戦いだったというイメージが根強いです。
しかし、実際にはそんなことはありませんでした。新撰組だけを見ても、この戦いに参加した隊士は、全員が小銃で武装しています。しかもその銃の多くはフランス製の最新のもの。刀はあくまでも補助的な役割でした。
この時点で、新撰組はすでに刀剣を主体とした戦闘を想定していなかったのです。
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「西洋不服の士」も
では、彼らはどのような体制で戦いに臨んだのでしょうか。
西本願寺に拠点を移してから、新撰組が新しい方式の訓練を取り入れたことは【前編】で説明しました。
この時新撰組には、銃をうまく使いこなすために、銃撃戦の指揮をとる役割の「銃頭」というポジションが設けられています。
また、蘭学医の指導を取り入れた生活改善策も取り入れており、彼らは西洋式の技術を積極的に活用していました。
こうしたやり方について、隊士たちの反応はさまざまでした。素直に新しいやり方を受け入れた者もいれば、忌避する者もいたようです。
例えば鳥羽・伏見の戦いでは、不慣れな洋式戦術を捨てて白兵戦に臨み、撃たれてしまった隊士も大勢いました。
それに、もともと組織が洋式化するのを不満に思っていた隊士も大勢いたようです。【前編】でご紹介した鳥取藩の記録には「西洋不服の士多々」と書かれています。
ちなみに、この「西洋不服の士」の代表格が、新撰組を扱ったエンタメ界隈では悪役にされることが多い武田観柳斎です。
彼は旧来の兵法を学んできた軍学者だったので、西洋式の新しいやり方は我慢できなかったのでしょう。