聖地・富士山に外国人!?江戸時代、初めて富士山に登頂した外国人「ラザフォード・オールコック」:2ページ目
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自らも医学を学び、外科医の免許を受けて、軍医としてポルトガルとスペインに従軍。1839年からは内務省の解剖検査官を務めるも、両手親指の麻痺症状により、外交官に転身します。1844年に、中国・福州の初代領事になり、厦門、上海、広東を歴任した後、1859(安政6)年、初代の駐日総領事として来日、英国の貿易拡大政策を推進するべく、駐日外交官の中心人物となりました。
1864(元治元)年、下関海峡の通行問題で、米・仏・蘭公使と共に、四国連合艦隊による下関砲撃が勃発。世にいう「下関事件」です。この際、オールコックはその処理を巡り、イギリスの外相の意見に反対したため、公使を解任されて祖国に帰国しました。
幕末の日本の様子を記録したオールコックの『大君の都』は、日本の歴史に精通していたのみならず、日本人の生活・社会・文化を驚くべき視野の広さで観察批判しています。
オールコックは当時、幕府から強く反対されたにも関わらず、「外国との新たな関係への怒りや、外国人への敵意があるかを確かめたい」という目的を掲げ、幕府の役人を含み100人を超える登山隊登山を強行しました。その経緯や様子も同著に書かれています。
その後、外国人の富士登山が正式に認められたのは、1872(明治5)年のこと。オールコックが富士山に登頂してから、12年も後のことでした。
参考
- ラザフォード・オールコック著 山口光朔訳 『大君の都 〈上〉 – 幕末日本滞在記』(2003 岩波書店)
- ラザフォード・オールコック著 山口光朔訳『大君の都 〈下〉 – 幕末日本滞在記』(2003 岩波書店)
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