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その腕前に家康も関心!徳川家で弓術師範を務めた竹内信次の活躍ぶりやいかに?【どうする家康 外伝】

その腕前に家康も関心!徳川家で弓術師範を務めた竹内信次の活躍ぶりやいかに?【どうする家康 外伝】

小牧・長久手の戦いで活躍

かくして徳川家の弓術師範となった信次。しかし家臣たちは面白くありません。

「何が八蔵じゃ。殿の仰せだから大人しく従うが……」

「あの生意気な小童、実戦ではいかほどかのう!」

信次の初陣は天正12年(1584年)、後世に伝わる小牧・長久手の戦いです。

ここで信次は得意の弓術を駆使して敵を次々に射止め、名だたる首級を二つも獲たのでした。

この時、信次は戦利品として唐頭(からのかしら。ヤクの毛で飾られた兜。高級品)と、村正の脇差を手に入れます。

自分のものにしてもよかったのでしょうが、信次はこれらを仲間に分配。唐頭は加々爪次郎右衛門に、脇差は内藤家長に与えたということです。

エピローグ

●信次

八蔵 五左衛門 母は某氏。

東照宮につかへたてまつり、御小姓を勤む。時に十九歳 そののち御徒の頭に転ず。信次少年のとき、射芸をこのみ、よく的に中つ。ゆゑに東照宮たはぶれに發知八蔵とめされ、仰によりて麾下の諸士信次に射芸を学ぶもの数多なり。天正十二年長久手の役に首二級をうち取、唐頭付たる甲及び村正の脇指を分捕す。その後唐頭は加々爪次郎右衛門某にあたへ、脇指は内藤弥次右衛門家長にあたふ。そののち関原御陣にしたがひたてまつり、慶長六年より西城の御留守居番をつとめ、のち奥方番に転じ、寛永十年致仕し、某年死す。年八十四。

※『寛政重脩諸家譜』巻第九百六十七 藤原氏(支流)竹内

その後、信次は関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)に従軍。慶長6年(1601年)からは留守居番として前線に出ることはなくなったようです。

のち奥方番(いわゆる大奥の管理職員)となり、寛永10年(1633年)に引退。没年は不明ですが、84歳という長寿で世を去ったのでした。

3ページ目 竹内信次の生年を推測

 

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