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徳川家康の側室なんかより武功が大事!側室警護の命令を放棄してしまった武将・佐野綱正の末路

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徳川直臣内で唯一処分を受けた佐野綱正

伏見城の戦い後、綱正が取った行動は評価されるものではありませんでした。

なぜなら、家康から側室の警護を放棄し、武功を挙げるために伏見城に入場したとみなされたのです。

また、綱正の嫡男・佐野吉綱が幼少だったことから近江国野洲の800石のみを相続でき、結果として減封処分が下されました。

このような処分が下されたのは、徳川直臣の中で綱正のみであり、家康の怒りを買ってしまったと言わざるを得ません。

実は側室たちから嫌味を言われていたという説も…

一説では武功目当てではなく、側室たちに嫌味を言われたから綱正は伏見城に入場したとの見解もあります。

この説によると、綱正は側室たちに「大戦にでないで、その辺をうろうろしているだけでいいのだから気楽なものですね」との嫌味に怒りを抑えきれず、伏見城に入場。

伏見城の戦いにて綱正は討ち死にするのですが、側室たちは「綱正がいなくなって心細かった」と綱正を卑下する内容を家康に伝えました。

本多正信たちが擁護に入るも、家康から側室の警護を放棄した不忠義者と評価され、減封となりました。

最後に

側室と伏見城の選択を取られたら、戦っている者たちの救援を目的に伏見城に向かうのは必然かと思います。

ただ、警護を命じられていたのは家康の側室たちだったので、綱正はどちらを選ぶか相当悩んだと思います。

結局、伏見城を選んでしまったことで、討ち死にとなり減封になってしまっているので、徳川家臣の中で哀しさを体現した人物と言えますね。

 

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