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元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【前編】

元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【前編】

挫折から政界へ

フランスからの帰国後に、初めての大きな挫折を味わいます。それは、中江兆民と共に「東洋自由新聞」を創刊して社長に就任した時の出来事でした。

社長になった彼に対して、宮中から圧力がかかって辞めさせられそうになったのです。西園寺は抗議しましたが、明治天皇から直々に命令が下ると(勅命)、あっさり退職しました。

このあっさりした退職ぶりは「身勝手」「執着がない」とも言われますが、この時の体験は彼にとって一種の「挫折」として感じられたようで、その後は若い頃の情熱が鳴りを潜めるようになりました。

やんちゃな性格だった彼が、その後パリ講和会議で再開したクレマンソーをして「かつての燃えるような情熱の持ち主は、皮肉屋の老人になっていた」と言わしめるほど人格的に変貌したのは、この新聞社の退職の経緯があったと思われます。彼はは、何事も無理をしないものぐさな性格になっていました。

その後、西園寺は伊藤博文の知遇を得て、伊藤の「腹心」的な立場で政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。

初入閣したのは第二次伊藤内閣で、この時のポストは文部大臣。後に外務大臣も兼務しており、これはフランスへの留学経験が大いに役に立ったと言えるでしょう。

さらに、第三次伊藤内閣でも文部大臣として入閣。1903年に伊藤が枢密院議長になると、1906年に西園寺が二代目の政友会総裁になりました。原敬を懐刀として上手く使い、党勢の興隆に尽力しています。

また、現代にも残る彼の大きな足跡として、京都帝国大学・明治大学・立命館大学の創立に関わったことが挙げられるでしょう。特に立命館大学では、西園寺公望を「学祖」としています。

【中編】では、総理大臣となった西園寺が、桂太郎との協力で「桂園時代」と呼ばれる政治史上の一時代を築いた流れを解説します。

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年

 

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