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規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【前編】

規則違反も事後承認!「強運」林銑十郎が首相に上り詰めて自滅するまで【前編】

朝鮮軍司令官としての「越境」

さて、1931年9月に満洲事変が勃発します。

満州全土の面積はフランスとドイツを合わせた程度のもので、日本列島の二倍はありました。事変を画策した関東軍の石原莞爾たちは、これを一万五千人の関東軍で制圧しようとしますが、どうしても頭数が足りません。

そこで石原は一計を案じ、満州で関東軍が軍事展開している間、本来の任務である居留民保護「朝鮮軍」にゆだねようとします。

朝鮮軍とは、朝鮮半島に駐留していた日本陸軍のことです。当時、この朝鮮軍の司令官だったのがほかならぬ林銑十郎で、彼は関東軍が軍事展開している間の「穴埋め」を命じられたのでした。

しかし、朝鮮軍が朝鮮を「越境」して満州に向かうのは国外出兵にあたり、朝鮮軍の本来の任務ではありません。天皇陛下の勅命なしに独断でそんな行動を起こせば、いわゆる統帥権干犯にあたり陸軍刑法で死刑または無期の重罪です。

この時、林は日記でも「大命ヲ待ツコト無ク越境ヲ命ジタルハ恐懼に堪ヘサルモ」と書いていますが、彼は最終的にこの「越境」を断行しました。本人にとってもおっかなびっくりの行為で、しばらくの間、食事も喉を通らなかったそうです。

そもそも日本政府も満州事変については「不拡大」の方針を取っており、最初から「越境はするな」と朝鮮軍に釘を刺していたのです。

ところが、当時の首相・若槻礼次郎は「やってしまったものは仕方がない」として林の越境行為を追認し、予算支出も含めて閣議で事後承認しました。天皇に対しても「閣議が認めた以上は違法ではない」という結論が伝えられます。

当時の日本は、外国に対する弱腰の外交や慢性的な不況で鬱屈した状態になっており、国民世論も林の行為に対して熱狂し、彼を「越境将軍」と呼んで持てはやしました。

ルール違反を咎められるどころか、許されて持てはやされるという悪運の強さ。【中編】では、そんな林が二・二六事件で難を逃れ、首相の座に就くまでの経緯を見ていきましょう。

【中編】はこちらから

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
倉山満『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』2017年、宝島社
倉山満『学校では教えられない歴史講義 満州事変』2018年、KKベストセラーズ
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』2016年、SB新書

 

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