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織田信長に追放される足利義昭の悪あがき「槇島城の合戦」とは【どうする家康 外伝】

織田信長に追放される足利義昭の悪あがき「槇島城の合戦」とは【どうする家康 外伝】:3ページ目

7月18日、義昭を追放

七月十八日 巳刻(みのこく)両口一度尓其手々々を争中島へ西へ向てドウと被打渡候誠ニ事も生便敷(おびただしき)大河御威光を以て無難打越暫人馬之息をつかせ其後真木島へ心懸南向尓旗首を揃真木島より出る足軽を追立佐久間蜂屋両手へ随分之頸数五十余討捕也四方より真木島外構乗破焼上攻られ 公方様御城郭者是尓過たる御構無之と被思食雖御動座候今ハ無詮御手前之御一戦尓取結候今度させる御不足も無御座之處無程御恩を忘られ被成御敵ニ候の間爰(ここ)尓て御腹めさせ候ハん寿れ共(そうらわんずれども)天命をそろしく御行衛(おんゆくえ)思食儘(おぼしめすまま)ニ有へから寿御命を助流し参せられ候て先々尓て人の褒貶尓のせ申さるへき由尓て若公(わかぎみ)様をは被止置怨をハ恩を以て被報之由(むくわるのよし)尓て河内国若江之城迄 羽柴筑前守秀吉 御警固尓て送被届誠尓日比者輿車美々敷御粧之御成歴々の御上臈歩立(かちだち)赤足(はだし)尓て取物も不取敢(とりあえず)御退座一年御入洛之砌者(みぎりは) 信長公供奉なされ誠尓草木も靡計(なびくばかり)之御威勢尓て甍(いらか)を並へ圍前後御果報いみしき 公方様哉と諸人敬候へキ此度者引替御鎧の袖とぬらさせられ貧報(貧乏)公方と上下指をさし嘲哢をなし御自滅と申なから哀成(あわれなる)有様目もあてられす真木島尓ハ細川六郎殿を入置申され諸勢南方表打出し在々所々焼拂

※『信長公記』巻之六(八)真木島ニテ御降参公方様御牢人之事

【意訳】7月18日の巳刻(午前10:00ごろ)、織田軍は先を争って中島(中書島)へと押し渡り、今度はいよいよ槇島城へと攻め込んだ。

島の北岸より回し込み、城から打って出てきた足軽たちを蹴散らしたのは佐久間信盛・蜂屋頼隆の両将。大いに暴れ回り、50余もの首級を討ち取ったのである。

やがて四方から攻め立てられ、城内の各所から炎上。ここに義昭は信長の軍門に下ったのであった。

「今となっては詮なきことであるが、そもそも何の不足もないよう取り計らったであろうに、一体なにゆえ恩義を忘れて織田に仇なす兵を挙げられたか」

「くっ……殺せ!」

「ここで腹を召していただこうとも思ったが、仮にも公方様を弑し奉ること、天のお怒りが恐ろしくてならぬ。よって御命ばかりはお助けし、河内の若江へお流し参らせる。せいぜい世の笑い者となるがよかろう」

かくして義昭は死一等を減じて流罪とされ、羽柴秀吉の護衛によって槇島城から立ち去ったのである。

義昭の子供(2歳)は人質として預けられ、やがて出家することになる。

さて、護送される義昭の輿車は実に美しく飾り立てられ、先ほど従軍させた公家たちは徒歩しかも裸足で後に続いた。

「あぁ、草木もなびかせるご威勢の織田殿に盾突くなど、無謀なことをしたばかりにこのザマだ……」

道中ボロボロになりながら、鎧の袖を涙でぬらす義昭や公家たち。沿道の人々はその哀れさを「貧乏公方」と指さして笑い、自業自得とは言え目も当てられないありさまだったとか。

なお、槇島城の後始末は細川昭元に任せ、信長たちは戻って行った。

終わりに

六月五日被納御馬其日 若江御泊次日 真木島へ御立寄 井戸若狭尓被下忝次第也 二條妙覚寺御帰洛翌日安土に至て御帰陣

※『信長公記』巻之九 天正四年丙子

かくして終結した槇島城の合戦。ちなみに槇島城はその後、塙直政や井戸良弘らが城主として受け継ぎましたが、やがて秀吉政権時代に伏見城が築かれると戦略的価値を失って廃されたそうです。

また、城が浮かんでいた巨椋池も昭和に入ると干拓が進んで完全に陸地となり、往時の面影を残しているものはほとんどありません。

現代では公園の中に槇島城があったことを示す石碑や記念碑がたたずんでおり、憩いの場にささやかな花を添えています。

かつてこの場所で、室町幕府の起死回生に燃えていた義昭。彼の野望に思いを馳せてみるのもいいかも知れませんね。

※参考文献:

  • 太田牛一『信長公記』国立文書館デジタルアーカイブ
  • 奥野高広『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年12月
  • 京都学研究会 編『京都を学ぶ【宇治編】』ナカニシヤ出版、2023年3月
 

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