織田信長に追放される足利義昭の悪あがき「槇島城の合戦」とは【どうする家康 外伝】:2ページ目
鎌倉武士たちを偲びつつ、宇治川を渡る
七月十六日 真木島へ 信長御馬をよせられ五ヶ庄之やなき山(現:許波多神社)尓御陣と居させられ則宇治川乗渡し真木島可攻破之旨(せめやぶるべきのむね)仰出誠尓名も高き宇治川漲下ツテ逆巻流るゝ大河表渺々として冷しく輙(すなわち)打越事大事と各(おのおの)雖被存知候(ぞんぜられそうろうといえども)可有御用捨(ごようしゃあるべき)御気色無之(みけしきこれなく)於致延引者(えんにんいたすにおいては) 信長公 可被成御先陣之旨候(ごせんじんのむねならるべくそうろう)難遁題目也就而両手を分而可打越之趣被仰出(おおせいだされ)候さ候間任先例川上平等院之丑寅より昔梶原と佐々木四郎先陣争ひて被渡候處(わたられそうろうところ)と
稲葉伊予 島右京助 同彦六先陣尓て 斎藤新五 氏家左京助 伊賀伊賀守 不破河内 息彦三 丸毛兵庫頭 息三郎兵衛 飯沼勘平 市橋傳左衛門 種田助丞 ドウ(※)と打越平等院之門前へ打上り鬨声を上て即近辺尓被揚烟 又川下五ヶ庄前川を西向て 被越候衆 佐久間右衛門 丹羽五郎左衛門 柴田修理亮 羽柴筑前守 蜂屋兵庫頭 明智十兵衛 荒木摂津守 長岡兵部太輔 息與一郎 蒲生右兵衛太輔 息忠三郎 永原筑前守 進藤山城守 後藤喜三郎 永田刑部少輔 山岡美作守 息孫太郎 山岡玉林 多賀新左衛門 山崎源太左衛門 平野 小河孫一 弓徳左近兵衛 青地千代寿 京極小法師 池田孫太郎
※『信長公記』巻之六(八)真木島ニテ御降参公方様御牢人之事
(※)漢字変換できず。口へんに童。
【意訳】7月16日。宇治川のほとりに到着した信長は、全軍に槇島城へ向かうため宇治川の渡渉を命令した(当時の槇島は巨椋池に浮かぶ島であった)。
京都の防衛線としてその名も高き宇治川の流れは冷たく激しく、乗り越えるのは一苦労である。しかし信長が命じる以上、やるしかない。
宇治川越えの先例にならい、川上にある宇治平等院の北東から渡り始めた。かつて鎌倉御家人の梶原源太景季と佐々木四郎高綱が先陣を争ったことが思い出される。
かくして宇治川を押し渡った先発隊は以下の通り。
【先陣】稲葉一鉄・島右京助・島彦六
【後続】斎藤利治・氏家直昌・安藤守就(伊賀守)・不破光治・不破彦三・丸毛光兼(まるも)・丸毛兼利・飯沼勘平・市橋利尚・種田正元
彼らが平等院の門前へ上陸を果たし、鬨の声を上げながらあちこちに放った煙が立ち上る。すると以下の本隊が宇治川を押し渡ったのであった。
【本隊】佐久間信盛・丹羽長秀・柴田勝家・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・明智光秀・荒木村重・長岡藤孝(細川幽斎)・長岡忠興(細川忠興)・永原重康・進藤賢盛・後藤高治・永田刑部少輔・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶(かげなお)・多賀常則・山崎片家・平野某・小川祐忠・弓徳左近兵衛(きゅうとく、久徳)・青地元珍(もとたか。千代寿丸)・京極高次・池田孫太郎