古墳時代「磐井の乱」とは何だったのだろうか。6世紀最大級の反乱を詳細に見てみる
かつては、中学校の歴史の教科書や、高校の日本史の教科書にも必ず出てきた「磐井の乱(いわいのらん)」。
学校の教科書に言及されるくらいだから、きっと古代史を考える上で重要な反乱だったのに違いないのですが、カリキュラム上仕方がないのか、ささっと片付けられ、センター試験(現在は「共通テスト」)にもほとんど出てこなかったような気がします・・・。
学校の授業では、そんな扱いの「磐井の乱」ですが、そもそもどういった理由で発生した反乱だったのか。ここではちょっと、振り返ってみましょう。
時代は6世紀初め頃に遡ります。当時、大和政権は、統一後の地方を治めるために、国ごとに国造(くにのみやつこ)という地方行政のリーダーみたいな人物を置いていましたが、大抵はその土地の豪族の子孫を任命していました。後に反乱を起こす磐井氏もその一族で、当時「筑紫」と呼ばれていた現在の北九州一体を治めていました。
6世紀頃の大和政権といえば、九州を平定し、その勢いで朝鮮半島の侵攻を試み、半島南部の伽耶(加羅)諸国を勢力下に置くようにまでなっていました。そうなると、次のターゲットは、半島東部の国・新羅。そこで、新羅は、大和政権の侵攻を回避するため、当時から大和政権による搾取に不満を持っていた磐井氏と手を結ぶようになりました。
大和政権の直接的な派兵は、新羅が伽耶国を侵略しようとしたことからですが、『日本書紀』には、新羅王が磐井氏に「貢ぎ物」をして、新羅に向かう大和政権軍を破ってほしいと頼んだ旨が記載されています。
この「貢ぎ物」とは、当時の朝鮮半島との交易の占有権のことでした。磐井氏は、一時期、南九州、東九州に出兵して、これらの地域を支配下に置きましたが、大和政権から派遣された物部麁鹿火(もののべあらかひ)率いる軍に討たれ、反乱は終わります。継体天皇の時代の話です。
結果的には、大和政権側の勝利に終わりましたが、場合によっては、政権が崩壊する可能性もあった、それだけ衝撃的な出来事でした。
『古事記』『日本書紀』などの正史では、磐井は、反逆者として描かれる一方、地元に残る伝承では、大和政権の脅威から、地元を守ろうとした英雄だったとする動きもあるようです。「中央」の圧政に耐えきれての反乱だったのかも知れませんね。
反乱自体は、527年発生し、翌528年に乱は鎮圧されますが、磐井の息子である葛子(くずこ)は、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を、大和政権に献上して死罪を免れたと、『日本書紀』には伝わっています。
現在、福岡県八女市にある岩戸山古墳は、磐井の眠る墓とされています。
【アクセス】
岩戸山古墳
西鉄久留米駅から西鉄バス八女営業所行きに乗車し「福島高校前」下車徒歩4分(350m)或いは、九州自動車道八女インターチェンジから6㎞。
参考
- 関 裕二 著『 』(2018 河出書房新社)
- 岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷
トップ画像:岩戸山古墳(Wikipediaより)