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赤備、再び?設楽原の戦いで討死した山県昌景(橋本さとし)の遺志を継ぐ山県昌満【どうする家康】

赤備、再び?設楽原の戦いで討死した山県昌景(橋本さとし)の遺志を継ぐ山県昌満【どうする家康】

天正3年(1575年)5月21日、設楽原の戦い(長篠の戦い)で壮絶な討ち死にを遂げた山県昌景(演:橋本さとし)。天下に勇名を馳せた精強な騎馬軍団が圧倒的な銃火の前に壊滅していく様は、今なお人々の涙を誘わずにいられません。

昌景の率いた武田軍の精鋭部隊「赤備(あかぞなえ)」。多くの者が長篠に散華するも、生き残りをまとめて再起を期する者がいました。

その名は山県昌満(やまがた まさみつ)、昌景の嫡男です。長篠から生還した家臣の小菅五郎兵衛(こすげ ごろうべゑ)らと共に赤備を再編するのですが……。

亡き父の跡を継いだ、けなげな若武者

[山縣源四郎昌満]

……昌景ノ男ナリ、長篠ノ役後昌満尚幼シ、小菅五郎兵衛ヲ陣代トス、後小菅ハ旗本ノ足軽隊将ニナリ、昌満本部ノ兵ヲ統領スト見エタリ、軍鑑ニ源四郎ハ壬午三月殺サルトアリ、未タ其巨細ヲ記スル者ヲ見ス

※『甲斐国志』巻之九十六

【意訳】通称は源四郎、昌景の息子である。長篠の合戦後、いまだ幼かったため小菅五郎兵衛に後見された。後に五郎兵衛は武田勝頼(演:眞栄田郷敦)直属の足軽大将に昇格したため、源四郎が自ら赤備を率いた。『甲陽軍鑑』によれば、天正10年(1582年)3月に討死したというが、いまだ詳しい資料は見つかっていない。

……とのこと。生年は不詳、長篠の合戦があった天正3年(1575)時点でまだ幼かった≒5~10歳と仮定すると、永禄9年(1566年)~元亀2年(1571年)ごろでしょうか。

没年は天正10年(1582年)。文中に言及される『甲陽軍鑑』そして『信長公記』の記述から、3月7日ごろに落命したものと考えられます。

……山縣同心三科廣瀬、辻弥兵衛、御供仕るを……

※『甲陽軍鑑』品第五十七

この三科傳右衛門(みしな でんゑもん)と廣瀬郷左衛門(ひろせ ごうざゑもん)は五郎兵衛と共に長篠で戦った仲間でした。

……山縣三郎兵衛衆の、小菅五郎兵衛、廣瀬郷左衛門、三科傳右衛門此三人と詞をかわし、追入おひ出し九度のせり合あり、九度めに三科も小菅も手負引のく、其上山縣三郎兵衛くらの前輪のはずれを鉄砲にて後へ打ぬかれ則ち討死あるを山縣被官志村頸をあげて甲州へ帰る……

※『甲陽軍鑑』巻第十九 五十二品「長篠合戦事」

【意訳】山県勢は小菅・廣瀬・三科の三人が力を合わせ、徳川勢と九度にわたる激闘を演じた。しかし三科も小菅も負傷して退却、山県昌景は銃撃を受けて討死。敵に主君の首級を奪われまいと、家臣の志村貞盈(しむら さだみつ)が掻き切って甲斐国へ持ち帰った。

父上の仇、主君の仇を、かならず討たでおくものか。しかし奮戦も虚しく、織田の軍勢に討たれてしまいます。

……武田四郎勝頼一門親類家老之者尋捜而悉於成敗 生害之衆……山縣三郎兵衛子……

※『信長公記』天正10年(1582年)3月7日条

享年12~17歳(推定)。元服して間もない少年の果敢な最期に、織田の者たちも涙せずにはいられなかったことでしょう。

終わりに

かくして名門・山県家の嫡流は絶えてしまったものの、弟の山県昌久(まさひさ。佐兵衛)・山県信継(のぶつぐ。三郎兵衛)らは武田家の滅亡後も生き延びて徳川家康(演:松本潤)に仕えます。

また赤備は武田旧臣の真田信繁(さなだ のぶしげ。真田幸村)や徳川四天王・井伊直政(演:板垣李光人)らが受け継ぎ、その勇名を後世に伝えました。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では割愛されてしまうでしょうが、昌景の遺児たちがどこかで活躍していると思うと、少しは昌景ロスの慰めになるでしょうか。

そして直政の率いる赤備が戦場を駆け巡るのを、今から楽しみにしています(信繁は登場するでしょうか、微妙なところですね)。

※参考文献:

  • 『甲斐国志 下』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『甲陽軍鑑 上』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ
 

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