【朝ドラらんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯③:2ページ目
漢字を廃止?急進的過ぎたローマ字採用運動
良吉らは、西洋詩の導入に留まるつもりはありませんでした。
むしろ日本古来の漢字や仮名を廃止して、日本語の文字としてローマ字を採用しようと画策・運動していたのです。
明治18(1885)年には、「羅馬(ローマ)字会」を設立。良吉は幹事となって運動の中心にあり続けます。
明治20(1887)年には『Romaji zasshi(羅馬字雑誌)』を編集。全てローマ字で書かれた雑誌の発刊を成し遂げました。
現代の学校で習うローマ字の歴史には、実は矢田部良吉による運動が関わっていたのです。
良吉、東京高等女学校の校長に就任する
良吉の活躍は、教育業界にまで及んでいくこととなります。
明治18(1885)年、第1次伊藤内閣において、森有礼が初代文部大臣に就任。かつて森の下で働いた良吉の運命も大きく動き始めます。
森は文部大臣として教育行政の改革に着手。翌明治19(1886)年に東京高等師範学校(東京教育大学の前身)を創立して教育の総本山とします。
教育行政の運営において、森が特に頼りとしたのが良吉でした。
良吉は特に女子の高等教育の拡大を求めており、かねてから演説においてもそれを訴えていました。
明治より前の江戸時代は、儒教的な考えが導入されています。いわば男尊女卑的な「夫唱婦随」関係が求められていました。
しかし良吉は時代錯誤だとしてこれを批判。夫婦の対等な相補関係を構築すべしと説きます。
良吉の教育観の中には、女性に欧米的な良妻賢母を求めていく思想があったようです。
良吉が本格的に女子教育に携わったのは、東京高等女学校においてでした。
明治15(1882)年、政府は東京女子師範学校の附属高等女学校を設立。明治19(1886)年2月には、同校を文部省直属の官立校に定めて東京高等女学校としていました。
良吉は東京高等女学校の校長を拝命。女子教育推進の立場として活動していく事となります。