徳川尾張藩に立ち込めし暗雲…若き藩主をはじめとする連続不審死の真相は?
徳川吉通という人
江戸時代に尾張藩で起きていた連続不審死について解説します。尾張藩は徳川御三家の一つであり、高い家格を誇る藩でした。しかし、徳川吉宗が将軍に就任する直前、この藩では数々の奇怪な事件が起きています。
当時、尾張藩は異常な状態にありました。四代藩主である徳川吉通は徳川吉宗の最大のライバルといわれており、頭がよく、名君として評されることが多い人物です。
しかし彼には暗君としての側面もありました。側近である奥田忠雄を小姓から出世させ、そして奥田は吉通の欲望ならどんなことでも応じていたのです。
例えば、吉通が料理屋の娘を下屋敷に連れ込むと、奥田はその娘の父を百五十石の尾張藩士に抜擢します。また、吉通が水泳の稽古をしたいと言い出せば、巨大な水船や温水プールまで造らせるという始末。しかもこの日本史上初の温水プールは不良品だったらしく、たった一度使われただけでした。
また吉通は、素行に問題があった母親をかばい続けていたともされています。
奥田の死から始まり…
さて、奥田忠雄を、吉通が万石取りの国家老よりも上席に座らせたあたりから、尾張藩では不審死が頻発します。
まず、1711年に奥田が突然亡くなりました。これについては女中に刺されたという噂もあったとか。
その後、吉通自身も1713年9月15日、夕方に腹部の痛みを訴え、わずか四時間後に死亡しました。25歳の若さでした。
儒学者・室鳩巣の『兼山麗澤秘策』では、吉通は「食後に血を吐き、苦しみながら死んだ。医者も全く手に負えなかったため、多くの者がその死を疑った」と記録されています。また亡くなる前日、彼は侍医に「汝は吾を殺しはせぬか」と尋ねたりしていたとか。
なぜか吉通の死は秘密裏にされ、さらに紀伊家から進物を担いでやってきた人たちのうち一名が、尾張家の表玄関前で突然死。さらに二か月後には吉通の三歳の子が亡くなり、また奥田忠雄の後継になった弟も25歳で亡くなりました。
これで「何かが起きている」と感じない方がおかしいでしょう。尾張藩内の人々は疑心暗鬼に陥ります。