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徳川尾張藩に立ち込めし暗雲…若き藩主をはじめとする連続不審死の真相は?

徳川尾張藩に立ち込めし暗雲…若き藩主をはじめとする連続不審死の真相は?

陰謀かお家騒動か

この連続不審死によって、尾張徳川家の正統は絶えることになり、その後徳川吉宗が将軍に就任しています。よってこれは吉宗やその関係者による陰謀・暗殺ではないかという推測もあるようです。

実際、当時の名古屋藩士だった朝日重章が記した日記『鸚鵡籠中記』の中には、当時「和歌山藩の間者が名古屋藩邸をうかがっている」噂が立っていたという記載もあり、尾張藩内には全般的に不穏な空気が漂っていたようです。

また和歌山藩ではその後、尾張出身者の解雇令が出されており、尾張徳川家の息のかかった忍びが侵入するのを防ごうとしています。

さらに言えば、吉通が亡くなったのは、将軍・家宣が亡くなった翌年のことです。家宣は、吉通を後継に考えていたとされています。

とはいえ、和歌山藩による陰謀というのはちょっと可能性が低いように思われます。そのわりには無関係の人間まで死に過ぎているからです。また、吉通が吉宗のライバルだったと言っても、本当に吉通は吉宗に代わり得る人材だったかは疑問符がつくところもあります。

さしあたりは、尾張藩の一連の連続不審死は、お家騒動として捉えた方が筋が通るでしょう。

当時、吉通の母親は多淫で、その素行には大変問題があったとされています。吉通はそんな母親を長らくかばい続けており、そんなこともあって吉通の親族と奥田たちは、門閥譜代の重臣たちと対立関係にあったともいわれているからです。

参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

 

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