松永久秀=悪人説の根拠
戦国時代の武将にもさまざまな人物がいますが、「悪人」を一人挙げろと言われたら、多くの人が松永久秀(まつなが ひさひで)を思い出すのではないでしょうか。
現在は単純な「松永久秀=悪人」説は誤りとされていますが、彼は長らく日本史上屈指の悪人の一人とされてきました。その理由のひとつが、織田信長が徳川家康に久秀を紹介した際「こいつが東大寺の大仏を焼いた」と話したことです。
ただ、戦乱のさ中に久秀が東大寺の大仏を焼いてしまったというこの逸話も、証拠は残っておらず研究者の間でも結論が定まっていません。今回は、この問題について探ってみましょう。
東大寺を舞台にした戦闘
松永久秀によって東大寺の大仏が焼かれたと伝えられている事件は、1567年に起きた東大寺大仏殿の戦い、あるいは多門山城の戦いと呼ばれている戦闘の最中に起きました。
この年の4月から10月にかけての半年間、松永久秀・三好義継と三好三人衆・筒井順慶・池田勝正が市街戦を繰り広げたのです。
大仏が焼けたのは夜のことなので、目撃者はいません。ただ、犯人が誰なのかについては3つの説があります。
ひとつは、松永久秀による放火。もうひとつは、三好三人衆軍による失火。3つめは、久秀軍の中にいたキリシタンの人物による放火です。結論を先に言えば、最近の研究者の間では2つめの失火説が支持を得ているようです。
ではなぜ、松永久秀は今まで犯人扱いされることが多かったのでしょうか。これについて歴史学者の磯田道史は、寺社や富裕層からの略奪を行ったことで恨みを買い、悪人として記録に残されたことが原因(の一つ)だと述べています。
久秀は武力を背景にあちこちから略奪し、それによって強力な軍勢を組織していました。1567年に戦いが始まると、彼は東大寺や奈良の興福寺をはじめ、その他の富裕層からも徹底的に「徴税」しています。
それに対し、久秀と敵対していた三好三人衆は寺社・富裕層を保護する方針を掲げます。こんな形でも、両勢は刃を交えていたのです。