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人間、謙虚さが一番。しかし…武士道バイブル『葉隠』が伝える大高慢のススメとは

人間、謙虚さが一番。しかし…武士道バイブル『葉隠』が伝える大高慢のススメとは

知識や才能があってもおごり高ぶらず、慎ましくへりくだる謙虚さは、多くの日本人が美徳として高く評価しています。

何事も、高慢であるより謙虚であった方がいい。皆さんもそう思われるのではないでしょうか。

しかし謙虚さもTPO(時と場所と状況)が大切で、往時の武士たちはあえて高慢であることが勧められました。

一体どういうことなのか、今回は江戸時代に書かれた武士道のバイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、こんなエピソードを紹介したいと思います。

江南和尚かく語りき

四七 宗龍寺江南和尚に、美作守殿・一鼎など学文仲間面談にて学文咄を仕懸け申され候へば、「各は物識りにて結構の事に候。然れども道にうとき事は平人には劣るなり。」と申され候に付、「聖賢の道より外に道はあるまじ。」と一鼎申され候。江南申され候は、「物識りの道に疎き事は、東に行く筈の者が西へ行くがごとくにて候。物を知るほど道には遠ざかり候。その仔細は、古の聖賢の言行を書物にて見覚え、見解高くなり、はや我が身も聖賢の様に思ひて、平人は蟲の様に見なすなり。これ道に疎き所にて候。道と云ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知つて一生打ち置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故にて候。佛は知非便捨の四字を以て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること数限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。」と申され候に付、座中それより崇敬いたされ候由。……(続く)……

※『葉隠聞書』第一巻

むかし、宗龍寺(佐賀県佐賀市、曹洞宗)にいる江南和尚(こうなんおしょう)の元へ、美作守(多久茂辰か)や石田一鼎(いしだ いってい。石田宣之)ら学問仲間が訪ねて学問話に花を咲かせました。

しばらく黙って聞いていた江南和尚。やがて「皆さん、博識でいらっしゃいますな。しかし道に疎いことは凡人に劣るようです」とコメントします。

何だと、この腐れ坊主が……対抗心が鎌首をもたげた一鼎が「古の聖人君子より教えを学ぶほかに、道というものがあるのでしょうか」と反論しました。

要するに「聖賢の教えをよく学び、理解している自分たちが、道を知らぬということなどあるまい」と言いたいようです。

江南和尚は続けて言います。「なまじ知識をひけらかす手合いは、東を目指して西へ進んでいるようなもの。ますます道から遠ざかってしまうでしょう。書物の知識で自分をかさ上げしている内に、まるで古の聖人君子になったと勘違いして、周囲の者たちを虫けらのように見下しているのではありませんか?」

そんなことは……言葉を返せない一同。江南和尚の話は続きました。

「そもそも道とは、己の非すなわち至らなさを知る事である。常に我が身を未熟と知り、一生涯精進を怠らぬ振る舞いを道と言うのである。聖という字をヒジリと読むのは、まさに己が非を知る「非知り」に他ならぬ」

「お釈迦様は知非便捨(ちひびんしゃ)、すなわち非を知りいかにそれを捨てるか、を心がけてこそ己の道を成就できると説きなされた。我が身を顧みれば、たった一日の内でどれほどの欲望や悪心が湧き起こっていることか……それを忘れて悟ったような振る舞いは、思い上がりもはなはだしい!」

「「「参りました!」」」

自身の学識におごり高ぶって、すっかり他人を見下していた一鼎たちは、心から江南和尚に感服したということです。

2ページ目 吾は日本無双の勇士と思はねば

 

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