豊臣秀吉による「太閤検地」の歴史的意義は?荘園制度の解体から身分制度の確立まで【後編】:2ページ目
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太閤検地の影響②石高制
例えば身分制度です。中世は農民と武士が混然一体となっており、力のある農民が、土地の収益の中間搾取によって財を成して武装化(武士化)するということがありました。
しかし太閤検地によって米の中間搾取は不可能となり、農民は農民として身分が固定化されるシステムとなったのです。
また太閤検地以前は、土地の収穫高を銭(貫)に換算することで、軍役や税収の基礎とすることが一般的でした。しかし銭の不足によってこのやり方は立ち行かなくなったのです。
しかし秀吉以降は、土地の生産力はシンプルに米の収穫高そのもので示されるようになります。いわゆる石高制の確立です。
そして、そのためになくてはならない度量衡の統一も秀吉によって行われ、長さの単位は「間」に、面積の単位は「歩・畝・段・町」に、そして容積は「合・升・斗・石」と定められたのです。
太閤検地の影響③身分制度の固定化
ちなみに、秀吉が打ち出した惣無事政策や有名な刀狩り、そして1590年代に出された人掃令も、先述した身分の固定化の政策の一環です。
刀狩りによって武装集団は武装解除を迫られ、惣無事政策によって私闘が禁じられ、人掃令によって農民や武家奉公人はそれ以外の業種に転身することを禁止されました。
こうして、農民は農民として、武士は武士として身分が固定化されたことで兵農分離が進められ、江戸時代にさらに身分制度が強化するための土台が整っていったのです。
身分制度や支配体制が確立していった……と聞くと、権力主義的な響きがあって、あまり良く聞こえないかも知れません。
しかし秀吉がこうした身分の固定化にこだわったのは、人々が血で血を洗う戦いを繰り返すような社会を改革するためだったと言えるでしょう。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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