九州の総力戦!戦国時代、豊臣秀吉による「惣無事政策」で追い詰められた島津氏の運命
惣無事政策を口実にされる
戦国時代の流れを見ていくと、ひとつ感心するのが九州の島津氏の強さです。この一族は九州統一を目前にして秀吉に屈したことになるのですが、なぜあれほどの勢力を誇った島津が最後には降伏したのでしょうか。その流れを追っていきましょう。
小牧・長久手の戦いで織田信勝と徳川家康との争いにケリをつけた秀吉は、1585年には紀伊方面を平定。さらに四国地方をほぼ制圧していた長宗我部元親も降伏させ、次の目標が九州地方でした。
当時の九州では島津氏の勢力が北九州まで拡大していましたが、まだ大友宗麟も豊後を拠点としてわずかに勢力を残していました。
秀吉が関白に任じられたのは四国攻めの最中でしたが、彼は惣無事政策として大名同士が戦うことを禁じる政策を推進していました。島津氏はそれでも戦いをやめなかったため、惣無事違反として征伐することになったのです。
今の時代から見れば「おまゆう案件」というやつですが、それはともかく秀吉から占領地を返還するように求められた島津氏は、交渉を打ち切って対立を決定的なものとします。
島津氏としては、自分のところは鎌倉時代から続く名門家であるという矜持もあったのでしょう。
ページ: 1 2