九州の総力戦!戦国時代、豊臣秀吉による「惣無事政策」で追い詰められた島津氏の運命:2ページ目
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総力戦の果て
さて1568年4月、秀吉軍に大友軍が合流する形になって、秀吉の九州攻めがスタートしました。
秀吉軍の軍勢は強大なもので、毛利氏を筆頭とする西国大名が総動員されたといいます。
この戦いは一年ほど続き、最初こそ島津氏が地の利を生かして粘り強く抗い続け、12月には秀吉軍と島津軍の戦いの中で長宗我部信親が戦死するなどしています。
そして、翌年の1587年3月にはついに秀吉が自ら九州へ赴きました。
この時点で秀吉軍の勢力は20万。島津方の城を次々に落として進軍していき、ついに4月末には薩摩国にまで侵攻します。
こうなってはなすすべもありません。島津氏は降伏し、最終的には薩摩と大隅が安堵されることになりました。島津義久が剃髪して秀吉に謝罪するシーンは、現在も鹿児島県薩摩川内市の泰平寺で銅像として残されています。
これが、島津氏が敗北した経緯であると同時に、秀吉が関東以東の制圧のために動き始めるスタートとなったのです。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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