「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【前編】:3ページ目
三成らにより主戦場として用意周到に準備された関ケ原
なぜ、関ケ原が両軍の決戦場になったのかについては、多くの説があります。大垣城・佐和山城の陥落を恐れた三成ら西軍が関ケ原に進出し、偶発的にここが決戦場になったのとの説も語られてきました。
しかし、それは真実でしょうか。石田三成ら西軍諸将は、この戦いに敗れれば、主家である豊臣家は家康により危うい立場に追い込まれることを確信していました。事実、約10年後の大坂の陣で、豊臣家は家康により滅亡の憂き目にあっています。
だからこそ、家康討伐の戦いを起こし、そして絶対に勝利しなければならない。そのために、あらかじめ関ケ原を決戦地として用意周到に準備を行い、豊臣家を守るための万全な必勝態勢を敷いていたはずです。
このように西軍が、関ケ原そのものを当初から決戦場として想定していたとの説を唱えたのが、城郭考古学者で奈良大学文学部教授の千田嘉博氏でした。
千田氏は、その根拠を航空レーザ測量により確認された、現在も関ケ原周辺に残る山城・玉城をはじめ、松尾山城などの陣城群に求めました。
では、【前編】はここまで。次回【中編】では、千田氏の新説に基づき、石田三成・大谷吉継らが立てた関ケ原の合戦における戦術・戦略についてお話ししましょう。
※参考文献:新説戦乱の日本史[最新研究]SB新書