血で血を洗う戦いの始まりから収束まで…織田信長と本願寺が対立し続けた理由とその経緯【前編】
仏敵にされた織田信長
織田信長と足利義昭が争う中、義昭によって敷かれた信長包囲網の中で、信長の最後の敵となったのが大阪本願寺です。顕如(けんにょ)が率いるいわゆる一向宗でした。
もともと本願寺は三好三人衆と親しくしていたのですが、1570年9月、信長が京で三好三人衆とにらみ合っていた頃、本願寺はいきなり信長への攻撃を開始します。
顕如は各地の信者たちに檄文を送り、信長討伐を呼びかけます。その内容は、「今までずっと信長に従ってきたにも関わらず、彼は本願寺を破却すると通告してきた」というものでした。
日本史の通説でも、信長は仏僧を排除しようとしたため顕如と対立し、「仏敵」と見なされるようになったとされています。
ただこの点には疑問も呈されており、もともと信長と本願寺は良好な関係にあったことが判明しています。先の顕如の檄文の内容は建前であって、本当は顕如と縁があった武田氏や朝倉氏が対・信長の方針を採ったためそれに続くしかなかったのではないか、という見方もあります。
ここで一度、顕如という人物について見ていきましょう。
ページ: 1 2