血で血を洗う戦いの始まりから収束まで…織田信長と本願寺が対立し続けた理由とその経緯【前編】:2ページ目
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顕如と本願寺の力
一向宗の門徒を率いた本願寺の顕如は、実はあくまでも浄土真宗の僧侶であり、一向宗を名乗ったことはありません。この点は不思議なところです。
ともあれ、彼は公家とも結びつきを深めることでどんどん教団を巨大化させ、戦国大名に匹敵するほどの軍事力・経済力を持つに至りました。
本願寺は河川や海上交通の利便性が高く、上町台地の北端という防衛にも向いている土地に建っていました。この点がいかに戦国時代に有利だったかは、この本願寺の跡地に、後年豊臣秀吉が大阪城を建てたことからも分かるでしょう(よって本願寺の遺構は残っていません)。
また、顕如の妻は武田信玄の正室の妹です。つまり信玄とは義兄弟にあたることから、武田氏が反・信長の姿勢を打ち出すとそれに追従するほかなかったとも考えられます。
ともあれ、本願寺と信長の衝突は一度は和睦となりますが、この後、信長と本願寺の対立は10年の長きに渡って続いていくことになります。
なぜ両者の戦いがここまで長く続いたのでしょうか。その経緯を、【後編】ではさらに詳しく追っていきます。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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