宗徒をまとめたカリスマ性に溢れた僧!一向宗の若きホープ・空誓の生涯を紹介【どうする家康】:2ページ目
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本證寺の復興を果たす
三河一向一揆から20年後の天正11年(1583)、家康は一向宗が三河国内に寺を建立することを許可しました。
しかしながら、空誓は仲介人の本多重次の書状を改ざんし、許可を得たと偽って幡豆郡荒川に道場を建てる事件を起こしています。これには重次も「俗方之上ニも珍敷事」と怒りを示しました。
そして、天正13年(1585)には本證寺は復興。同時に家康と親密な関係になるため、親交を取り始めます。その結果、一向宗の三河国内の地位確立を果たしました。
また、天正18年(1590)の関東転封で家康が江戸に拠点を移すと、末寺の徳本寺を置いています。
尾張徳川家と密接な関係に
家康と密接な関係になった空誓は、晩年になると家康からの頼みで尾張藩主となる徳川義直(家康の9男)を助けるよう依頼されます。空誓は、義直が尾張藩に来た際、清州城で祝辞を述べました。
それがきっかけで、本證寺住職は藩主や住職が後退した際には、登城謁見が許可さることが慣例となりました。また、住職交代の際には江戸城にいる将軍に謁見を許可されており、空誓は相当の世渡り上手だったことがわかります。
そして、波乱万丈な人生を生きた空誓は、慶長19年(1614)に70 歳で亡くなりました。
最後に
一代で徳川家との密接な関係性を築き上げた空誓の政治手腕には驚かされますね。また、一時的に敵となった空誓を重宝した家康の懐の深さにも尊敬の念を覚えます。どこかの場面で出てきたら面白いですね。
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