日本史上稀な「甲相駿三国同盟」はなぜ結ばれた?三人の名将たちのそれぞれの思惑とは:2ページ目
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政略結婚はフォークダンスのように
とはいえ、今川家は、尾張の織田家とも争っていたため、北条と本格的に対立すると東西を敵に挟まれることになってしまいます。そこで北条との関係修復を模索した結果、改めて武田・北条・今川による政略結婚が行われることになったのです。
まず、1552年から1554年にかけて、今川義元の娘である嶺松院殿が、武田信玄の子である武田義信に嫁ぎました。その次に、北条氏康の娘である早川殿が、今川義元の子である今川氏真へ。さらに信玄の娘である黄梅院殿が、北条氏康の子である氏政に嫁ぎました。
男性と女性がぐるぐる回っており、まるでフォークダンスです。
こうして三国同盟は成立し、そのおかげで武田信玄は川中島の戦いに集中することが可能になりました。また北条氏康は関東各地の大名との争いに、さらに今川義元は織田に対して、それぞれ注力することができたのです。
ちなみにこの三者、同盟を結ぶにあたって直に顔を合わせたかのようなイメージがありますが、それを示す証拠はありません。
『相州兵乱記』では、駿河の善徳寺で三人が顔を合わせたと書かれていますが、もともとこの書籍自体が後世に編纂された軍記ものなので、それが実際のことだったのかは不明です。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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