仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【前編】:2ページ目
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仇敵に助け舟を出す
さて、細川晴元と対立した三好元長ですが、元長は1532年に自害に追い込まれました。一向一揆勢(本願寺)を晴元が扇動し、その攻撃を受けたことが原因でした。
こうした経緯を見ていたのが、元長の長男である三好長慶です。彼は当時11歳で、父の命により、母と一緒に堺から阿波へと逃れました。そして三好家の家督を継いで、その後は雌伏のときを過ごすことになるのですが、ほとんど間を置かず1533年に意外な出来事が起きます。
一向一揆勢を扇動して三好元長を自害に追い込んだはずの細川晴元が、なんと阿波へと逃れてきたのです。彼は、自分が動かしていたはずの一向一揆をコントロールすることができず、都を追われるはめになってしまったのでした。
三好氏にとっては仇敵にあたる存在ですが、ここで晴元と一向一揆の間に入って仲介し、和解へと話を進めていきます。
この時、長慶は12歳だったので、和解のための交渉を彼が直接行ったとは考えにくいのですが、『本福寺明宗跡書』などを見ると長慶が和睦を進めたと記されています。このことからも、三好氏の権威はこの頃も衰えていなかったことが分かります。
【後編】では、長慶が細川晴元のもとで力をつけ、畿内全域を支配下に置くまでの経緯を解説します。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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