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夫が祖父を討伐。琉球の悲劇の王女、百度踏揚(ももとふみあがり)の運命に翻弄された人生【前編】

夫が祖父を討伐。琉球の悲劇の王女、百度踏揚(ももとふみあがり)の運命に翻弄された人生【前編】

Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今回は沖縄の尚氏による琉球王朝時代の悲劇のヒロインにフォーカス。尚氏の娘として生まれたがために運命に翻弄された悲しい王女、百度踏揚(ももとふみあがり)の生涯について前後編でご紹介します!

由緒ある王家の娘・百度踏揚

さて、沖縄の時代区分で一口に琉球王朝時代と言っても、第一尚氏時代と第二尚氏時代に分かれます。

第一尚氏は1469年第二尚氏にクーデターを起こされ、王位を追われたのです。第一尚氏は1406年、佐敷の按司・尚巴志が中山王武寧を攻め滅ぼし、父・尚思紹を中山王位に即けてから拡大を続け、2代尚巴志即位時代には沖縄本島を初めて統一。

その後滅亡までに先島諸島を除く沖縄諸島や奄美群島までを影響下に置く事に成功し、5代尚金福王の時代までは非常に安定し繁栄していました。にわかに第一尚氏の勢力に影が差し始めたのが王統第六代国王・尚泰久の時代からでした。そしてその尚泰久の長女として誕生したのが百度踏揚だったのです。

尚泰久の正室である百度踏揚の母は、護佐丸(ごさまる)という中城城の有力按司の娘。正真正銘の華麗なる王族の娘として育った百度踏揚は、これから運命に呑み込まれてゆくのです…。

 

一度目の政略結婚

百度踏揚の一度目の結婚の相手は、勝連の按司である阿麻和利(あまわり)氏でした。阿麻和利はもともと平民出身でしたが非常に頭が良く、わわをやゆ実力で勝連の按司となった若者でした。

彼は勝連城を拠点に貿易などでどんどん力をつけて有力按司に成長していました。尚泰久王は阿麻和利を警戒する意味で、百度踏揚を政略結婚に利用したのです。

夫が祖父を討伐

1458年、尚泰久王は阿麻和利に残酷な役目を任せます。なんと、百度踏揚の祖父・護佐丸を、阿麻和利に討伐させたのです(阿麻和利が自ら護佐丸の謀反を王に密告したなど諸説あり)。

阿麻和利にしてみれば義父の尚泰久王の命令は断れませんが、標的の護佐丸も彼にとっては義祖父。複雑なジレンマの中で討伐を行った事になります。尚泰久王にとっては、実は義父の護佐丸の存在は目の上のたんこぶだったので、新しく血縁を結んだ阿麻和利が手を下した事は非常に都合が良かったのです。

しかし百度踏揚にしてみれば夫が祖父を殺してしまったのですからまさに悲劇です。しかしこれは序章に過ぎませんでした。

(後編に続く)

 

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