姉と妹、豊臣と徳川のあいだを取り持つ!浅井三姉妹の次女・お初(常高院)とは?:2ページ目
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豊臣家と徳川家の関係が悪化
慶長19年(1614年)には、大阪冬の陣が起こります。常高院は、姉が豊臣側、妹が徳川側という立場にいました。徳川家康は、常高院に仲介を頼み、豊臣側の交渉役となります。徳川側の交渉役・阿茶局(あちゃのつぼね)と会談し、一旦の和睦を成立させます。
しかし、翌年には大阪夏の陣が起こり、再度両家の関係は悪くなります。常高院は最後まで和睦の道を模索しましたが、姉の意志は固く、大阪城が落城。姉と彼女の息子は自害しています。
妹とはその後も会う機会があった
姉を亡くした常高院でしたが、妹の江とは、その後江戸城で会う機会が増えたと言われています。その後、寛永10年(1633年)、江戸屋敷にて64歳で死去しています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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