「下剋上」は単なる反逆ではなかった!戦国時代にも存在した「御恩と奉公」の関係の実態をさぐる
時代ごとに違う「御恩と奉公」のかたち
鎌倉時代の御家人は、幕府と御恩と奉公の関係で結ばれていたと学校で習ったものですが、この「御恩と奉公」という言葉はその後の時代には登場しませんね。しかし実は、少なくとも戦国時代まではこの関係性は生きていました。
戦国大名とその家臣の主従関係においては、「御恩」は主君が家臣に土地の所有権を与えることを、そして「奉公」はそれに対して合戦で軍役を負担することを意味していました。
図式だけを見ると鎌倉時代と違いはないように見えますが、例えばその後の江戸時代とは異なり、戦国大名の家臣は絶対的な忠誠心は求められていませんでした。「御恩」の内容に不満があれば、いつでも「奉公」をやめられたのです。
このため、戦国時代の主君と家臣の間では起請文の提出が行われていました。起請文とは、主君への忠誠を神仏に対して誓う文書のことです。
「家臣」の三つの類型
そんな戦国大名に仕える直属の家臣たちは、三つのタイプに分類することができます。
ひとつは、主君である大名と血縁関係・親戚関係にある一族家臣によって構成された一門衆で、これは別名を一族衆・御親類集・御一家衆とも言いました。血のつながりがあるだけに忠誠心の高さが期待され、その他の重臣よりも地位が高かったと言われています。
次に、大名家に代々仕える古くからの家臣や、大名の一族ではあるものの血のつながりが薄い人たちなどは譜代衆です。これは大名からの信頼も篤く、合戦などでは重要拠点を防衛する役目を与えられたり、殿(しんがり)を務めることもあったといいます。
そして最後に、新たに服属した新参の家臣が外様衆です。新参衆とも呼ばれ、領土拡大によって取り込まれた国人なども含まれます。彼らはまだ忠誠心を試されている段階なので、合戦では最前線に駆り出されていました。
これらの区分と類型は、そのまま江戸時代の親藩・譜代・外様という形で引き継がれていることが分かるでしょう。