鎌倉殿の候補から2度も流罪に…雅成親王の波瀾万丈な生涯【鎌倉殿の13人】
子供を作らない源実朝(演:柿澤勇人)の養子候補として名前の挙がった、頼仁親王(よりひとしんのう)と雅成親王(まさなりしんのう)。
いずれも後鳥羽上皇(演:尾上松也)の大事な皇子。御家人たちを従えるには申し分ないですが、果たして鎌倉にはお越しいただけるのでしょうか。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」劇中では頼仁親王が推されていましたが、今回は雅成親王について、その生涯をたどってみたいと思います。
鎌倉殿候補から2度も流罪に
雅成親王は正治2年(1200年)9月11日、後鳥羽上皇と藤原重子(じゅうし/しげこ)の間に誕生しました。順徳天皇(第84代、守成親王)は実の兄です。
建仁4年(1204年)に5歳で親王宣下(親王の位が与えられ)、建暦2年(1212年)に13歳で元服。三品(さんぼん)の位を与えられました(三品親王)。
14歳となった建暦3年(1213年)に結婚し、承久元年(1219年)には男児を授かっています(後の澄覚法親王、母親は藤原親経女)。
この年に実朝が暗殺されると、雅成親王を次期鎌倉殿に迎えるべく鎌倉より下向要請が来ました。しかし後鳥羽上皇はこれを拒絶、朝廷と鎌倉の対立は深刻になっていきます。
そして承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉の執権・北条義時(演:小栗旬)を討つべく兵を挙げました。後世に伝わる承久の乱です。
果たして後鳥羽上皇は敗れて隠岐国(現:島根県隠岐諸島)へ流され、雅成親王も但馬国城崎郡高屋(現:兵庫県豊岡市)へ流されました。このことから但馬宮(たじまのみや)とも呼ばれます。
嘉禄2年(1226年)に出家。そのままひっそりと余生を過ごすのかも思いきや、父・後鳥羽上皇の崩御(延応元・1239年)後に赦免され、京都に戻って母と暮らしました。
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