ご乱心か既定路線か…なぜ豊臣秀吉は朝鮮に出兵した?4つの説をご紹介:3ページ目
最も有力なのが「唐入り構想」説
次は、テレビや小説で描かれることが多い「息子の死にショックを受けた」説について。
秀吉には鶴松という息子がおり、もともと子宝に恵まれなかった秀吉は、唯一の実子である鶴松を溺愛していました。
しかし知られている通り、鶴松は1591年にわずか3歳で病死。秀吉はこれにショックを受けて朝鮮出兵を決めたのではないか、とも言われているのです。
しかし、朝鮮出兵の計画はそれ以前からあったようです。愛息の死によって権力者が破滅へと突き進んでいく……というストーリーはドラマチックではありますが、実際には息子の死=朝鮮出兵、ではないという見方が強いです。
最後に、最も有力視されているのが「唐入り構想」説です。
戦国時代、武将に恩賞として与えられたのは土地の支配権でした。これを知行地といいますが、日本の土地には限りがあります。よって十分な恩賞を得られず不満を抱く武士も多くいました。
この頃、日本では既に知行地が限界に来ていたのです。そこで新たな土地を求めて大陸を目指したのではないかというのが、この唐入り構想説です。
ちなみに、この「唐入り」の構想自体は織田信長の頃からあったといわれ、もしかすると、長い間織田信長のそばにいた秀吉にとっては、「日本の次は唐入り」「知行地が不足したら唐入り」というのは既定路線の自然な流れだったのかも知れません。
参考資料
刀剣ワールド
東洋経済オンライン
朝鮮出兵 文禄・慶長の役