隻眼・隠密・大剣豪…柳生十兵衛の生涯と数々の「伝説」の真相をさぐる【前編】:2ページ目
引きこもり期間が伝説の素地に
しかし、寛永3(1626)年のある日、十兵衛は家光の逆鱗に触れて蟄居を命じられ、小田原に一時預かりの身となってしまいます。
家光を怒らせた原因ははっきりしません。十兵衛は酒グセが悪く、酔うと言動が荒くなるタイプだったため、それが原因で家光の怒りに触れたのではないかというのが通説です。
そういえば、青山剛昌の代表作『YAIBA』でも柳生十兵衛が登場しますが、普段は義に厚くカッコイイのに、酒を飲むとガラの悪い狼に変身するという特性がありましたね……。
さて、1年後には十兵衛の蟄居も解けましたが、その後の再出仕は許されず、彼は江戸を離れて故郷の柳生庄に引きこもります。
柳生庄では、祖父の石舟斎や父の宗矩の口伝および目録を研究し、稽古を重ねて「柳生新陰流」兵法の研鑽に明け暮れていたようです。
また、この時期に祖父の門人を訪ねて武者修行をしながら諸国を廻っていたとも言われており、このことが後に多くの講談や創作物の材料となりました。
寛永14(1637)年になってようやく再出仕が許された十兵衛は、12年ぶりに江戸に出仕します。
江戸城書院番から2代目藩主へ
翌年、家光に重用されていた異母弟・友矩(とものり)が病により出仕できなくなったため、代わりに十兵衛が江戸城書院番に就任しました。
江戸城書院番とは将軍直属の軍団で、江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行などを務める役割です。
また十兵衛は剣の達人で、その実力は父をも凌ぐと言われていたため、家光の剣術指南役としても活躍しました。
寛永16(1639)年には、家光の御前で兵法を披露しています。この時の相手は宗矩の筆頭高弟・木村助九郎友重と、同母弟の宗冬でした。
また寛永19(1642)年には、柳生庄で収集した資料や、書き溜めていた草稿などを元に、流祖である上泉信綱からの術理をまとめ上げた代表作『月之抄』を執筆しています。
そして正保3(1646)年に父・宗矩が死去すると、遺領は家光の裁量により兄弟で分領されることにとなります。
十兵衛は8300石を相続して家督を継承しますが、石高が1万石を下回ったため、柳生家は大名から旗本の地位に戻ることになりました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上「柳生藩2代目藩主」とされています。
しかし、彼が藩主だった時期はごく短いものでした。その後については後編で説明します。